【元号はいつからあるの?】元号の誕生やそれぞれの歴史を振り返る −平安時代まで

西暦2019年4月30日をもって、平成という元号は終わります。そして5月1日から「令和」という新しい元号の時代が始まります。
31年続いた平成が終わり少しさみしい気持ちもあると思いますが、新たな元号とともに、また新たな時代を生きることができるのは幸せなことなのかも知れませんね。

ところで、この「元号」はいつからあるのでしょうか?明治・大正・昭和・平成は誰もが知る元号ですが、それ以前はどうだったのでしょうか?
今回は、元号の誕生やそれぞれの時代背景を3回に分けて振り返ってみたいと思います。

鎌倉時代〜戦国時代までは
【元号はいつからあるの?】元号の誕生やそれぞれの歴史を振り返る −鎌倉時代〜戦国時代まで
江戸時代〜現在までは
【元号はいつからあるの?】元号の誕生やそれぞれの歴史を振り返る −江戸時代〜現在

元号は大化の改新からはじまった

日本書紀によると、大化の改新の行われた西暦645年(以下西暦という言葉省略)に「大化」という元号を用いたのが最初と言われています。ちなみにこの大化は645年7月17日〜650年3月22日までです。
以来、平成まで247の元号が営々と使われてきました。つまり一つの元号は平均すると6年以下なのです。

一番短い元号は2ヶ月ちょっと、長いのは圧倒的に昭和

現在、1979年に制定された「元号法」で「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」とされていますが、これまで一番短かった元号は鎌倉時代の「歴仁」(りゃくにん)で、1238年12月30日〜1239年3月13日で、わずか2ヶ月と14日なのです。

昔は天災や地震が続いたりすると改元される事も多くありました。
ちなみに一番長い元号は「昭和」で1926年12月25日〜1989年1月7日まで、つまり62年と14日です。

歴史の教科書に出てきた元号

歴史の教科書で習った元号が冠された事象も数多くありますよね。今回はすぐに思い浮かぶ元号を集め、どんな時代だったかを振り返ってみました。

大化(たいか)645年7月17日〜645年2月15日)

その時代、実は ほとんど使われなかった「大化」
飛鳥時代、実質的に日本を支配していた蘇我氏を、中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣鎌足が倒し、皇子の母にあたる皇極天皇に政の中心を戻したのが「大化の改新」です。

しかし、当時の遺跡や物事を記録した木簡には「大化」の文字は一切残っていないそうです。

皇極天皇は大化元年に弟の孝徳天皇に譲位。孝徳天皇の時代に大化は二番目の元号である白雉(はくち)が5年続きますが孝徳天皇の死後、32年間元号は途切れます。

そして、天武天皇が、686年8月14日に朱鳥(しゅちょう)という三代目の元号で復活させますが、2カ月足らずの686年10月1日で終わり、以後また15年間年号のない時代が続きました。

唐の影響力が強く元号は使えなかった?!

中国大陸で618年、唐が成立。ぐんぐんと国力を高め朝鮮半島にも進出して来ました。7世紀、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の3カ国が勢力を競っていましたが、新羅は唐の皇帝の許可なく独自の元号を制定するなど唐と対立していましたが、唐に従属する姿勢を鮮明にし、元号は廃止したそうです。

新羅を従えた唐との連合軍は百済を激しく攻めます。そして663年の白村江の戦いでは、倭国は百済を応援し出兵しますが、唐、新羅連合軍に完敗。百済は滅亡します。そして多くの百済の人々が倭に渡来して来ます。

東アジアでは、それほど唐の力が巨大でこう言った緊迫した状況の中、「外交的に」元号は使わなかったのではないかと思われます。

大宝(たいほう)701年5月3日〜704年6月16日

わずか50日たらずの元号であった朱鳥をのぞけば、47年間使われなかった元号が復活したのが大宝です。
白村江の戦い以降、我が国の領土は減らなかったものの、超大国である唐がいつ攻めてくるかもわからず、軍事的にも、政治的にも大きな変革が迫られました。そして唐との和平友好交渉にも積極的に取り組むようになります。

天智天皇、天武天皇の時代に様々な法令を整備し、律令国家を目指し始めます。そして大宝元年(701年)日本最初の法例集「大宝律令」が完成しました。「律」と「令」が揃い、国家としての明確な骨格が出来、中央集権の国家体制が整いました。

また、同年にはしばらく中断していた遣唐使を復活、唐との関係修復を図ります。(実際には天候のため翌702年に渡航。初めて「日本」の国号を使ったとされています。

和銅(わどう)708年2月7日〜715年10月3日

女帝・元明天皇の時代で、この和銅3年、つまり710年に奈良に都を遷都した時代です。
「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとくいまさかりなり」
と万葉集で歌われた時代です。

708年には日本で最初に流通した貨幣とされる「和同開珎」(わどうかいほう・わどうかいちん)が誕生したことでも知られています。

712年には、太安万侶(おおのやすまろ)、稗田阿礼(ひえだのあれ)の編纂による日本最古の歴史書と言われる「古事記」が編纂されました。

713年には、日本最古の地理書「風土記」が編纂されるなど日本文化が花開き、記録に残る歴史が始まった時代です。

天平(てんぴょう)729年9月2日〜749年5月4日

「天平の甍(いらか)」という井上靖の小説があります。
遣唐使真っ盛りのこの時代に、留学僧が命がけで海を渡り、当時世界一の先進国であった唐で、仏教等を学び、鑑真という高僧を日本に招聘し、何度も難破しながら遂に来日に成功・・・・という物語ですが、まさに「天平文化」と言われる奈良時代の最盛期と言われる時代でした。

聖武天皇の時代、背中の甲羅に「天王貴平知百年」とくっきりと7文字があるめでたい亀「瑞亀」が献上されました。これは「今の天皇の政治は素晴らしく世の中は平和でこの先100年続くだろう」という意味で、ここから文字をとって元号としたと言われています。

実はこの「天平」の後に「天平感宝」(749年5月4日〜749年8月19日)「天平勝宝」(749年8月19日〜757年9月6日)「天平宝字」(757年9月6日〜765年2月1日)「天平神護」(765年2月1日〜767年9月13日)と天平を冠した四字熟語の元号が続きます。

この「天平宝字」は、聖武天皇の没後即位した孝謙天皇の時代。宮中で蚕が「五月八日開下帝釋標知天皇命百年息」という文字を吐き(書き)、その意味は「今の帝は聖武天皇の一周忌を最後まで見事にやり遂げた、帝の世は100年続くだろう」ということで改元されたと言われています。不思議な生き物の不思議な現象です。政権の「権威づけ」に登場したのかもれません。
(ちなみにこの次の元号である「神護景雲(じんごけいうん)」(767年9月13日〜770年10月23日)までの5つの元号のみが四字熟語で、それ以外は全て2字熟語です)

この4文字熟語の「天平◯◯」を含めた「天平時代」に我が国は政治、経済、文化とさまざまな面で進化していきます。

741年には全国各地に国分僧寺、国分尼寺が建立されはじめ、
743年には、墾田(こんでん)を奨励しその墾田は私有地とする「墾田永年私財法」が施行されます。

752年には東大寺にいわゆる奈良の大仏が誕生。
753年には唐から高僧、鑑真(がんじん)が来日し奈良に唐招提寺を建立。

756年には校倉造(あぜくらづくり)で今尚輝く東大寺の正倉院が完成。
759年には最古の和歌集である「万葉集」が編纂されるなど時代は進みました。

一方で山上憶良(やまのうえのおくら)が「貧窮問答歌」を書いたように一般人の生活は困窮を極め、高い税に苦しめられた時代でもありました。

延暦(えんりゃく )782年9月30日〜806年6月8日

そして奈良時代も終焉を迎えることになります。
784年桓武天皇は都を長岡京に遷都。
平城京の北西約50キロの、宇治川、木津川、桂川の三川が合流する物流の拠点となりうる土地で「山崎津(やまさきのつ)」という港を開きます。(ちなみに三川が合流することで霧が立ちやすく、のちに日本で初めてのウイスキー蒸溜所で今でも人気のウイスキー「山崎」はこの地名に由来しています)

長岡京には色々と問題があったようで
794年(延暦13年)今の京都に遷都。平安京と名づけられます。平安時代の始まりです。
797年(延暦16年)坂上田村麻呂が征夷大将軍となり東北地方、蝦夷を征伐。陸奥国に鎮守府をおきます。

800年から802年(延暦19年〜21年)にかけて富士山が大噴火したという、いわゆる「延暦大噴火」の記録も残っています。
804年には最澄、空海が唐に渡ります。そして最澄は1年で帰国し、天台宗を開きます。そして805年比叡山に延暦寺を立てます。のちに織田信長が焼き討ちにしたあの比叡山延暦寺です。

ちなみに延暦は、昭和、明治、応永、平成に次いで5番目に長い元号です。
(応永は南北朝統一後の最初の元号で1394年8月2日〜1428年6月10日までの35年間)

保元(ほうげん)1156年5月18日〜1159年5月9日 )、平治(へいじ)1159年5月9日〜1160年2月18日

保元・平治の乱とひとくくりで言われますが、平安時代の末期におこった2つの乱のことを合わせてこう言います。

保元の乱

1156年(保元元年)、元号を保元に改元した後白河天皇と兄弟である崇徳(すとく)上皇が対立。
それぞれ摂関家の藤原忠通、藤原頼長兄弟を味方に引き入れます。さらに後白河天皇側は源義朝、平清盛らの有力武士を、崇徳上皇側は義朝の父である源為義、清盛の叔父である平忠正を陣営に引き入れました。

そして、義朝、清盛らの大軍が上皇の住む白川殿を一斉攻撃すると数時間で天皇軍が勝利を収めます。崇徳上皇は讃岐国(さぬきのくに)に流され、為義や忠正も処刑されます。

朝廷内部の抗争に摂関家の争いを巻き込んだ事件ですが、両陣営が武士を引き入れ、まさに「武力」で決着がついたことで以降武士の力が急速に高まってきます。

平治の乱

保元の乱に勝った後白河天皇は権力を高めます。
1158年(保元3年)二条天皇に譲位し自分は上皇として院政を敷きます。宮廷政治は藤原信西が政治を仕切っていましたが上皇のお気に入りの中納言・藤原信頼が台頭します。この両者が対立、信西には平清盛、信頼には源義朝がつきます。

1159年12月9日(平治元年)清盛が熊野詣で京都を離れている間に信頼、義朝は挙兵し御所を襲撃し上皇、天皇を幽閉。信西は逃げ出しますが結局殺されます。

一方、事態を聞いて兵をとって返した清盛は信頼を懐柔(かいじゅう)し上皇、天皇を助け出します。そして、12月26日、源平の戦いが内裏(だいり)や六波羅(ろくはら)で起こり平清盛の大勝利に終わります。
藤原信頼は殺され、東国へ逃げた源義朝も尾張国で殺害され源氏の力は弱まり、平清盛の時代が到来しました。

平安時代の終焉

平清盛は1167年、武士で初めて太政大臣になり、政治の実権を握ります。海外にも目を向け瀬戸内海航路や大輪田泊(神戸港の前身)を整備し、日宋貿易を盛んに行いました。厳島神社では今も当時の隆盛をしのぶことが出来ます。

1182年に平清盛が病死。以後、源頼朝が台頭し1185年壇ノ浦の戦いで源義経に敗れた平家は滅亡します。
ここまでで107の元号が使われました。

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