【元号はいつからあるの?】元号の誕生やそれぞれの歴史を振り返る −江戸時代〜現在

西暦2019年4月30日をもって、平成という元号は終わります。そして5月1日から「令和」という新しい元号の時代が始まります。
31年続いた平成が終わり少しさみしい気持ちもあると思いますが、新たな元号とともに、また新たな時代を生きることができるのは幸せなことなのかも知れませんね。

ところで、この「元号」はいつからあるのでしょうか?明治・大正・昭和・平成は誰もが知る元号ですが、それ以前はどうだったのでしょうか?
今回は、元号の誕生やそれぞれの時代背景を3回に分けて振り返ってみたいと思います。

平安時代までは
【元号はいつからあるの?】元号の誕生やそれぞれの歴史を振り返る −平安時代まで
鎌倉時代〜戦国時代までは
【元号はいつからあるの?】元号の誕生やそれぞれの歴史を振り返る −鎌倉時代〜戦国時代

江戸時代の始まりです。これからなんと260年以上続きます。

慶長10年(1605年)徳川秀忠が第2代将軍に就任。
慶長17年(1612年)禁教令。キリシタン信仰が禁止されます。
慶長19年(1614年)大坂冬の陣。
慶長20年(1615年)大坂夏の陣、大阪城は落城し豊臣家が滅亡。
この年の7月に元号は「元和」に改元されます。

元和(げんわ)1615年〜1624年

元和は徳川家康の意向により唐の憲宗の年号を使用したとされています。
家康が定めた禁中御法度で年号も幕府が介入することになりました。

しかし、公家たちの大きな反発を招き、その後幕府の意向が通ったのは「天保」のみだったと言われています。
また、中国の元号がそのまま使われたのもこの元和のみです。
家康の権力の大きさがしのばれる出来事です。

そして元和に改元した翌年。
元和2年(1616年)徳川家康は死去。
元和9年(1623年)徳川家光が3代将軍に就任。

寛永(かんえい)1624年〜1645年

年号を寺号とした徳川の菩提寺の一つ「寛永寺」

家康、秀忠、そして家光の3代の将軍が帰依していたのが天台宗の天海僧正です。天海は江戸に大寺院を建てたいと考えていました。そして秀忠は今の上野公園の土地を天海に与えます。秀忠が隠居し、3代将軍となった家光が寛永2年(1625年)、現在の東京博物館のある土地に本坊が建立されました。この寛永2年が寛永寺の創立年とされています。(寛永の年号をとり、寺号としたのです)

そして、京都の北東(鬼門)を守る比叡山になぞらえて江戸の鬼門を守る東の比叡山という意味を込めて山号を「東叡山」としました。

この天海僧正は、家康の深い信頼を得て江戸の町を風水術を駆使して作り上げた都市計画家でもあるようです。また、家康がなくなった後、「大権現」として祀ることも天海僧正の意見が通ったと言われています。そして今でも日光の東照宮に大権現の墓があるわけです。(最近読んだある作家の仮説では「アマテラスに対してアズマテラスという意味も込めているのでは?」というものがありました。

寛永13年(1636年)寛永通宝の鋳造始まる。

寛永の元号を冠したものの一つに「寛永通宝」があります。中世以降、それまでは「永楽通宝」など明(中国)から輸入した通貨が一般に流通していました。

寛永13年に幕府が各地に貨幣を鋳造する「銭座」を作り統一的な通貨「官銭」として鋳造させたのです。これで江戸時代の経済は円滑に回るようになりました。
明治初期でも1銭として通用したようで、まさに江戸時代が終わるまで流通経済を支えました。

元禄(げんろく)1688年〜1704年

町人文化の発達・・。憂き世から浮き世へ
元禄文化、という言葉があります。(昭和元禄、という言葉もありました)
平和な時代が続き、さまざまな産業が発展し、町人たちの経済力も格段に上がってくると、一般人の生活や心情さらには思想などを表現するエネルギーが生まれてきます。

元禄元年(1688年)、井原西鶴が、町人ものの代表作の一つ「日本永代蔵」を刊行。(正確には元禄は10月からです、刊行は1月なので貞亭5年)
元禄2年(1689年)、松尾芭蕉が大垣で奥の細道の旅を終える。
元禄16年(1703年)、近松門左衛門作の浄瑠璃「曽根崎心中」が竹本座で初演。

このように、まさに文化が爛熟し、まさに「百花繚乱」の様相を見せた時代です。
忠臣蔵で有名な赤穂浪士の事件も元禄14年に江戸城で松の廊下の事件が起こり、翌元禄15年12月14日に吉良邸への討ち入りが行われ、元禄16年2月4日に大石内蔵助たちが切腹・・・とまさに「時は元禄」時代の「事件」でした。

元禄は巨大地震で終焉•宝永に改元するも富士山大噴火

元禄16年11月(1703年12月)房総半島南端を震源とするマグニチュード7.9から8.5と言われる巨大地震が発生。
元号は翌年宝永(ほうえい)1704年〜1711年に改められました。

宝永(ほうえい)1704年〜1711年

巨大地震による改元です。
しかし宝永になってますます地震や火山の噴火が相次ぎます。宝永4年(1707年)に南海トラフ巨大地震で日本史上最大級と言われるマグニチュード8.4から9.3の地震が発生しました。そしてその49日後、富士山の「宝永大噴火」が起こりました。(今、宝永山・宝永噴火口と言われる富士山のあのタンコブのような山です)

享保(きょうほう)1716年〜1736年

享保元年(1716年)に御三家である紀州藩から第8代将軍についたのが「暴れん坊将軍」のモデルになった徳川吉宗です。
そして江戸時代の三大改革の中で最も成功したとされる「享保の改革」を行いました。いわゆる財政再建や行政改革です。

享保2年(1717年)大岡忠相を江戸町奉行に任命。まさに大岡裁きが始まりました。
享保6年(1721年)目安箱を設置し庶民の直訴をうける仕組みを作りました。
享保7年(1722年)小石川薬園を拡張し養生所を設置。
質素倹約をすすめ、改革は一定の成果をあげましたが経済、そして文化的には低調な時代でした。

天明(てんめい)1781年4月25日〜1789年2月19日

教科書等での記憶もあるかと思いますが、天明2年から天明8年にかけておこった大飢饉のことを「天明の大飢饉」と呼びます。日本の近世では最大の飢饉だと言われ数万人が餓死したと言われています。

特に東北ではその前から冷害等で農作物の出来高が悪く、農村を中心に厳しい状況に置かれていました。そんな中天明3年(1783年)3月に岩木山が、7月には浅間山が噴火。

火山灰が広く農耕地を襲っただけでなく、太陽をさえぎって日照時間が短くなったため壊滅的な不作となりました。

その翌年から餓死者が続出する事態となってしまいます。疫病も流行し、全国で天明時代に100万人弱とも言われる人口減少を招きました。

寛政(かんせい)1789年4月25日〜1801年3月19日

天明の大飢饉で一揆や打ちこわしが多発し、老中の田沼意次失脚。松平定信が老中となり、緊縮財政や風紀の取り締まりの強化で、財政の健全化を目指しました。この一連の改革を「寛政の改革」と呼んでいます。
しかし、庶民にも倹約を強要したり、厳しい出版規制や、遊興の規制等で人気を失い失脚します。

文化(ぶんか)1804年3月22日〜1818年5月26日、
文政(ぶんせい)1818年5月26日〜1831年1月23日

江戸時代も終わりに近づき第11代将軍には一橋家出身の徳川家斉が、1787年に将軍となりました。その後なんと50年将軍を続け、さらに隠居して家慶に将軍を譲ってからも「大御所」として亡くなった1841年まで合計54年間も権力を握っていたため「大御所時代」とも呼ばれています。

その時代の中でも、文化・文政時代には「文化」が爛熟した時代と言われています。浮世絵で美人画で有名な喜多川歌麿や、鈴木春信たちが活躍。寛政の改革以降規制が厳しくなる中で、また、文化元年(1804年)には絵入りの娯楽本「草双紙」が制限される中で、文章を添えたり、あの手この手で反骨精神を見せたことでも知られています。

文化12年(1815年)杉田玄白がその回想録「蘭学事始」を出版したのもこの時代です。国学とともに蘭学も成熟期を迎えていました。

ちなみにこの頃から外国船がたびたび日本近海に現れるようになっています。文化5年(1808年)イギリス軍艦フェートン号が長崎に入港。
文政8年(1825年)には異国船打払令が出されています。

文政2年(1819年)

やせ蛙負けるな一茶これにあり(小林一茶)

われときて遊べや親のない雀(小林一茶)

小林一茶の「おらが春」もこの年の元旦から年末までの身辺雑記を俳句とともにまとめた代表作です。
このように文化・文政時代は文化が栄えた一方、幕藩体制が揺らぎ衰退が始まった時期でもありました。

天保(てんぽう)1831年1月23日〜1845年1月9日

この時代も不作が続きコメの値段が高騰、天保の大飢饉と言われる状況に陥ってしまいます。その影響もあって一揆や打ちこわしが頻発。天保8年(1837年)には大阪で大阪奉行所の元役人の大塩平八郎が、幕府に公然と反乱を起こしました。島原の乱以来200年ぶりの幕府の出兵でした。これが「大塩平八郎の乱」です。

天保12年(1841年)大御所と呼ばれた徳川家斉が死去。老中水野忠邦は、享保、寛政の改革に続く「天保の改革」を始めます。しかしすでに幕政の傷は深く天保14年(1843年)に水野忠邦は失脚し、改革は終わります。

この頃から薩摩藩、長州藩や水戸藩などは自分たちで藩財政を立て直し、維新へと繋がってゆきます。

嘉永(かえい)1848年4月1日〜1855年1月15日

嘉永5年(1853年)アメリカの東インド艦隊司令長官ペリー率いるいわゆる黒船と呼ばれる蒸気船が4隻、三浦半島の浦賀沖に現れました。19世紀初頭から欧米の船が日本周辺に出没していましたが、「艦隊」が開国を求めてきたのです。

攘夷論を唱える水戸藩主徳川斉昭らは開国を断固拒否、戦いも辞せずとしましたが、流れは「開国」に傾いていきました。しかし幕府は結論を出せずいわゆる時間稼ぎに終始。ペリーは翌年の来日を告げていったん離日しました。

同じ年、ロシアの大使プチャーチンが長崎に来航しやはり開国通商を要求してきました。
ペリーは嘉永6年(1854年)、最新の軍艦ポーハタン号を旗艦に7艦で来日。今度は艦隊を江戸湾内に進め威嚇し横浜での会見を要求し実現させます。その強硬な態度を恐れた幕府は通商以外は認める「日米和親条約」が3月に結ばれました。そして下田、函館の開港、燃料や食料の調達などの内容が盛り込まれました。

安政(あんせい)1855年1月15日〜1860年4月8日


黒船の来航や、日米和親条約を結んだその年に、東南海地震はじめ大地震が立て続けに発生し、元号を嘉永から安政に改めました。

安政元年(1854年)3月31日、日ロ和親条約締結。
安政3年(1956年)7月、アメリカのタウンゼント・ハリスが下田に駐日総領事として着任。下田の玉泉寺に日本で初めての領事館を開設。

安政5年アメリカ、ポーハタン号の艦上で日米修好通商条約を結びました。そしてハリスは初代駐日公使になりました。
これをきっかけに、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとそれぞれ通商条約を結び、鎖国は終わりました。

これが「安政の五カ国条約」で朝廷の許可なく、いわゆる無勅許での調印で、幕府が進めたものです。そして、大老井伊直弼による反対派の弾圧、安政の大獄が始まります。
安政7年3月3日、桜田門外の変。井伊直弼は江戸城桜田門外で暗殺。

元治(げんじ)1864年3月27日〜1865年5月1日

朝廷は「令徳」を希望していたが幕府が大反対し「元治」に・・・
甲子(かっし)革命という「きのえね」の年、つまり60年に一度のこの年には政治に変革が起こるということで、開眼して災厄を避けるということで洗礼に従い、文久からの改元の準備が前年から行われていたそうです。

将軍家茂の上洛時で後見人の一橋慶喜と朝廷の公家衆の間で話し合いがなされました。朝廷からは「令徳」に○印が、第二案として「元治」が提案されたと言います。幕府側は「令徳」とは「徳川に命令するのか」と、さらに「元治」は元にて治める、つまり「王政復古」ではないかと一橋慶喜は強硬に反発したそうです。

間を取り持った松平春嶽が「天下の政権はもともと御所にあり幕府か任されているだけだ。また古来「令」の字は用いられておらず、これまでの慣例にない。元治の方が妥当ではないか」と仲裁に奔走し、ようやく「元治」に落ち着いたと言います。

のちに春嶽は「実に今にして考ふれば、小児の争いの如し」と回顧しています。
いずれにせよ、家光などは「元号は当然将軍が決める」と言っていたようですから、意見が通ったとはいえ幕末の徳川家の凋落ぶりがうかがえる逸話です。

このサイト「For your LIFE」を運営するフマキラーの創業家である大下家のルーツは、「元治元年」と確認出来ます。
写真の履歴書を要約すると、創業家である大下利吉が「元治元年から広島の片河街にあった吉崎善助の営む薬屋で修行し、明治7年3月に本所で店を開き漢方と西洋の薬を販売している」とあるからです。

そしてこの元治はわずか1年余りで改元。
江戸時代最後の年号である

慶応(けいおう)1865年5月1日〜1868年10月23日

江戸時代最後の年号である慶応(けいおう)1865年5月1日〜1868年10月23日をへて現代へと続きます。

明治(めいじ)1868年1月1日(旧暦)〜1912年7月29日
大正(たいしょう)1912年7月30日〜1926年12月24日
昭和(しょうわ)1926年12月25日〜1989年1月7日
平成(へいせい)1989年1月8日〜2019年4月30日

令和(れいわ)2019年5月1日〜

そして、いよいよ令和の時代が始まります。

大化から数えて248番目の元号です。

令和2年(2020年)には東京オリンピック・パラリンピックが開かれます。きっと大いに盛り上がることでしょう。

5G(Fifth Generation/第五世代移動通信システム)の実用化が検討されています。あらゆるものがネットに繋がる、いわゆるIoT(Internet of Things)の時代が加速するでしょう。
車の自動運転を始め、まさに「未来都市」が次々と実現する時代になりそうです。

令和7年(2025年)には大阪市の人工島である夢洲(ゆめしま)で、5月3日から2025日本万国博覧会(大阪・関西)、いわゆる万博が開かれます。テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」、サブテーマは「多様で心身ともに健康な生き方・持続可能な社会・経済システム」。令和の時代を象徴するテーマですね。

しかし、いつの時代でも大切なのは人の心。
首相が談話で新元号の令和は「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味を込めた、と語ったように、平和で人々が豊かに過ごせる時代であってほしいものですね。

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