「元号はいつからあるの?」元号の誕生やそれぞれの歴史を振り返る – 鎌倉時代〜戦国時代

西暦2019年4月30日をもって、平成という元号は終わります。そして5月1日から「令和」という新しい元号の時代が始まります。
31年続いた平成が終わり少しさみしい気持ちもあると思いますが、新たな元号とともに、また新たな時代を生きることができるのは幸せなことなのかも知れませんね。

ところで、この「元号」はいつからあるのでしょうか?明治・大正・昭和・平成は誰もが知る元号ですが、それ以前はどうだったのでしょうか?
今回は、元号の誕生やそれぞれの時代背景を3回に分けて振り返ってみたいと思います。

平安時代までは
【元号はいつからあるの?】元号の誕生やそれぞれの歴史を振り返る −平安時代まで
江戸時代〜現在までは
【元号はいつからあるの?】元号の誕生やそれぞれの歴史を振り返る −江戸時代〜現在

武家政治の始まり

源頼朝は1192年に征夷大将軍に任じられ、全国に守護・地頭を設置。
京都の公家とまだまだ並存しつつではありますが武士による統治が始まります。

そして、3代将軍源実朝が1219年に暗殺されてからは、執権である北条家による実質的な鎌倉幕府の政治が行われていきます。

建仁(けんにん)1201年3月19日〜1204年3月22日

鎌倉新仏教の誕生

鎌倉時代に入ると、新しい武士たちや貧困にあえぐ農民たちに新しい仏教が次々と生まれ、広まって行きました。これまでの旧仏教から生まれた浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗。
これら庶民に広がった仏教は厳しい修行や戒律、学問を問わなかったためどんどん広がって行きました。

そして武士を中心に中国(宗)から伝わった禅宗(臨済宗、曹洞宗)がそれぞれの開祖によって布教され始めました。
いわゆる「鎌倉新仏教」が、武士、庶民の信仰を集めるようになりました。

建仁2年(1201年)、臨済宗を信奉していた二代将軍源頼家は、京都に寺域を寄進し、その開祖である栄西禅師が建仁寺を開山しました。そしてその元号である建仁を寺号としたのです。

建長(けんちょう)1249年〜1256年10月24日

執権として幕府を動かした北条家は臨済宗を特に庇護しました。鎌倉五山の筆頭として今でも観光客でにぎわう建長寺は、五代執権北条時頼が立てた臨済宗建長寺派の総本山です。

開山は南宋からの渡来宗である蘭渓道隆(大覚禅師)。禅宗に深く帰依していた執権時頼が渡来した高僧に依頼して、1253年(建長5年)に落慶供養が行われました。
京都の公家から「独立」して国家を運営して行こうという鎌倉幕府、武家政治の精神的な支柱となったと言えるかもしれません。

文永(ぶんえい)1264年3月27日〜1275年5月22日

蒙古来襲・・・文永・弘安の役

1266年(文永3年)から当時世界帝国となっていた元(蒙古)のフビライ・ハンが我が国に合計6度も使者をよこし「属国になるように」と従属を迫りました。

当時の8代目執権・北条時宗はきっぱりと拒否します。使節を切り捨てたこともありました。当然フビライ・ハンは激怒し、日本侵攻を命じます。
1274年(文永11年)10月。蒙古と属国になっていた朝鮮半島・高麗の連合軍が対馬に上陸。

そして数日後博多湾に来襲しました。騎馬兵で世界を征服してきた「集団戦」の蒙古軍に対して「やあやあ我こそは」と名乗って一騎打ちをしようとする日本の武士たちは大苦戦をします。

しかし、蒙古軍は静かに引き上げていきます。文永の役では「神風は吹いていない」という説が近年では有力のようですが、ではなぜ引き上げたのか?今回は蒙古軍の強さを誇示して、その後の交渉に有利につなげることを考えていたのかもしれません。もちろん武士が「意外に強かった」という説もあります。ともかく一難は去りました。

これが「文永の役」です。

弘安(こうあん)1278年3月23日〜1288年5月29日

文永の役の翌年である1275年、幕府は頑張って戦った御家人たちに恩賞を与えます。しかし敵地を奪い取る戦いではなく、守りの戦いのため増えた領地は全くありません。当然大盤振る舞いはできず、一方で蒙古軍の再来にも備え準備しなければならなくなりました。

同じ年(1275年)元から再度使者が来日します。目的は「従属しないと今度はより強力な軍を送る」という脅しでしたが、幕府は、これを切り捨てます。
再度の襲来に備えて「防塁」を築くよう御家人たちに命じます。御家人たちも大変な出費だったはずですが、手柄を立てようと苦しみながら必死で頑張ったのでした。

一方でこの戦争や、次戦に備えた準備をすることで執権北条時宗の求心力は大いに高まりました。
この頃、北条時宗は反撃して高麗に攻めこもうとした、という説もあります。
(さすがにそれはできなかったようですが・・・)

そして、1279年6月(弘安2年)、再度来日した使節一行を博多で皆殺しにし、断固たる態度で臨みます。
まさに宣戦布告です。

弘安の役、神風は吹いたのか!?

1281年(弘安4年)蒙古は朝鮮半島からの東路軍(兵4万人軍艦900艘)と、中国大陸からの江南軍(兵10万人、軍艦35000艘)の二方向から攻め寄せました。

大変な激戦が壱岐・対馬から始まり、これを占拠され、さらに九州北部から長門に至る地域で戦闘が起こりました。江南軍の到着が遅れたりする中で、蒙古軍の滞在は数ヶ月。
そこに台風(いわゆる神風)がやってきて軍艦が壊滅的な打撃を受け、これを退けることができた、という「戦争」です。

戦死者供養のために円覚寺を建立

北条時宗は建長寺の開山である蘭渓道隆(大覚禅師)に禅を学んでいました。
その死後、代わりとなった高僧の無学祖元に深く帰依していました。そして国家の鎮護と、文永・弘安の役で亡くなった武士たち、しかも敵である元の兵士も分け隔てなく弔うために円覚寺建立を発願(お願い)し、弘安5年(1282年)に開山しました。

建武(けんむ)1334年3月5日〜南朝は1336年2月29日。北朝は
1338年10月11日まで)

南北朝時代から室町時代へ

元寇以降、だんだんと鎌倉幕府の北条氏による執権政治は行き詰っていきます。一方で京都の公家たちも大覚寺統、持明院統という二派に分かれ天皇がそれぞれの派閥で交互に交代するというような対立を繰り返していました。

そんな中で大覚寺統の傍流の後醍醐天皇が1318年に即位。持明院統と、大覚寺統の主流さらにはそれを支持してきた鎌倉幕府を打倒しようと画策しますが、計画は敗れ、隠岐島に流されます。

しかし、後醍醐天皇の討幕活動を支持する楠木正成や、後醍醐天皇の皇子、護良親王らが決起し、それが幕府側の大物で、源氏の子孫である足利尊氏や新田義貞の挙兵につながります。

1333年、後醍醐天皇は隠岐の島を脱出。足利尊氏は京都で六波羅探題を破り、新田義貞は鎌倉で北条高時を攻め滅ぼします。
鎌倉幕府の滅亡です。

建武の新政と崩壊

後醍醐天皇は、持明院統の光厳天皇の退位、そして元号を「建武」にあらためます。
天皇自ら祭事を行う、まさに親政を開始します。
ところが、これまでの土地所有や制度を撤廃し、天皇自らの裁断を強めた為、また様々な反乱等が起こり始めます。

足利尊氏、新田義貞という両巨頭が対立をはじめ、後醍醐天皇は新田義貞を応援。しかし建武2年(1335年)箱根・竹之下の戦いで新田軍は敗れ、翌年足利尊氏が入京。その後も戦いは続きますが建武3年、湊川の戦いで楠木正成が敗北すると、京都を捨てて比叡山へ逃れます。

同じ年足利尊氏は持明院統の光明天皇(光厳天皇の弟)を即位させ、二人の天皇が存在するということに・・・後醍醐天皇は吉野に逃れて吉野朝廷を設立、南北朝時代の始まりです。

元号は南北朝それぞれが・・・南朝は8つ、北朝は16の元号を使用

それ以降、約60年にわたって京都の北朝が16の元号を、吉野の南朝が8つの元号を使用した時代を経て、1394年に「応永」という元号に統一されます。

足利義満の時代に室町幕府の安定。南北朝は統一され元号は「応永(おうえい)」

三代将軍、足利義満の時代に室町幕府も安定し、政治はもちろん文化等も隆盛します。
そして将軍直轄の武力を備え、権力を高めて南北朝を統一します。「天皇になろうとした」ともいわれるほどの権力を手にするのです。

義満は明にあこがれ、明徳5年(1394年)の改元の際に明の太祖・洪武帝の世にあこがれて「洪」の字を入れるように指示したものの洪水につながると公家や学者の反対にあって実現せず、腹を立てたという話も残っています。(諸説あり、とのことです)そして「自分の生きている間は元号を変えさせなかった」という説もあるようです。

日明貿易等で国を富ませ、金閣寺(鹿苑寺)を建立。鴨川の水を引いて四季の草花を植えた「花の御所」を建て、ここが室町殿と呼ばれ幕府・将軍の通称となりました。観阿弥・世阿弥が熊野神社で猿楽(能)を上演したのもこの時代でした。

戦国時代から江戸時代へ

応仁(おうにん)1467年〜1469年

足利義満は応永15年(1408年)に急死。
4代将軍足利義持、5代義量(よしかず)は早世し、後継を指名していなかったこともあって混乱。6代将軍となる義教は何とくじ引きで決められました。
足利義教は従わない鎌倉公方や有力大名を追放。その強引さもあって暗殺されてしまいます。

将軍の力が落ち、幕府の主導権を有力な武士たちが争って行くことになるわけです。また、それぞれの大名の家でも家督争いが激しくなっていきました。家長が後継者を指名していた時代から、家臣の支持や本人の能力の優劣が問われ始めたのです。

義満は幕府を支える有力大名である細川家、斯波(しば)家、畠山家という足利家につながる3管領家を三職。山名家、一色家、土岐家、赤松家、京極家、上杉家、伊勢家を七頭とし「三職七頭」としましたが、それぞれの家が、また家の中でも後継問題で対立が始まっていました。

応仁の乱と日野富子の暗躍

そして、応仁元年(1467年4月9日から)、主導権を争う細川勝元と山名宗全の対立から「応仁の乱」という全国を二分する大乱が始まりました。

暗殺された足利義教の子で、9歳で将軍につき10歳で亡くなった足利義勝の弟、義政が7代将軍になります。
応仁の乱の一つのきっかけは、この義政に、後継がなかなか生まれなかったため、弟の義視を指名したところ、その直後に男児、義尚(よしひさ)が誕生したこと。義尚が後継になる状況が高まる中、義視、そして彼を支持する大名たちの間に不満がくすぶります。

義尚の生母である日野富子は、義尚を将軍にするべく、義視の後見人である細川勝元に対抗する為に山名宗全に義尚の後見人を頼みます。これで両勢力の対立は避けられないものとなってしまいました。

実は細川勝元は山名宗全の娘婿で、当初はいい関係であったものが、将軍家、管領家をはじめとする名家を巻き込む東西20万人以上の兵士が争う大乱に発展してしまったのです。

京都の街を焼き尽くし、1473年に細川勝元、山名宗全がそれぞれ病死した後もまだ乱は続きました。1477年ようやく集結しましたが、京の都は荒廃し足利幕府の権威は失墜。
戦国時代へとつながっていきます。

文化的には優れていた将軍義政

応仁の乱を止められなかった将軍義政は、まだ戦いの真最中である1473年に息子である義尚に将軍職を譲ります。

政治的には力を発揮できず無責任でもあった義政ですが、能の音阿弥や、画家の小栗宗湛はじめ優れた芸術家を育てるなど文化面では後世に大きな足跡を残しています。

東山文化の粋、銀閣寺(慈照寺)

そして何より、銀閣寺は義政の美意識の集大成であると言えます。いわゆる東山文化と言われる「簡素枯淡の美」の象徴です。

義政は、善光寺の完成を待たず、この大山荘に引っ越し、美を求め趣味に生きる風雅な生活を送りました。
(余談ですが、この引越しの原因は日野富子との不仲であるとの説もあります)

応仁の乱から戦国時代へ

室町幕府は凋落し、応仁の乱もあって庶民・農民の生活も困窮を極めます。そんな中、農民たちは各地で一揆を起こします。そして加賀などでは農民と僧が「一向一揆」を起こし国を占拠する事態も発生します。

各地の大名はこれを利用・鎮圧します。
戦国武将が登場し幕府はこれを全くコントロールできない状況になります。
まさに戦国時代へ突入です。

群雄割拠の時代を収めたのが織田信長。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元を破り、以降グングンと勢力を拡大します。また、この戦いでは徳川家康も今川の人質から解放され三河で「独立」します。

天正(てんしょう)1573年〜1593年

1573年、武田信玄が上洛を目指し甲斐を出陣、これに呼応して将軍足利義昭も挙兵。しかし信玄は上洛途中で病死。義昭は織田信長によって討伐され追放。ここに室町幕府は滅亡します。同じ年、浅井、朝倉家を信長は攻め、これを滅亡させます。

そしてこの年、元号は天正と改元されます。天下布武をうたっていた織田信長の「息のかかった」改元であったのかもしれません。

天正10年(1583年)本能寺の変

信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、本能寺で信長を暗殺します。豊臣秀吉(羽柴秀吉)が山崎の合戦で明智光秀を倒し、その後「清洲会議」で、秀吉の推薦する三法師が織田家の後継に決定し、流れは秀吉の天下に傾きます。

天正13年(1584年)秀吉は関白に就任。翌年、徳川家康は秀吉の臣下となり、羽柴秀吉は豊臣秀吉に改名します。

天正18年(1591年)伊達政宗が秀吉の臣下となりいわゆる天下統一が完成します。翌年、秀吉は太閤に。(この年千利休が切腹します)

天正19年(1592年)第一次朝鮮出兵。翌年撤兵。

このように天正時代は、信長の野望、そしてその後を継いだ秀吉が天下を取った時代です。

文禄(ぶんろく)1593年〜1596年 
そして慶長(けいちょう)1596年〜1615年)

文禄の役、慶長の役


文禄2年(1593年)秀吉に豊臣秀頼誕生。同4年(1595年)養子の関白だった豊臣秀次は疎まれ自害。

文禄5年(1596年)に大地震が頻発し慶長に改元されたようですが慶長に入っても大地震が何度も襲っています。

そして慶長2年(1597年)秀吉は再び朝鮮に出兵します。いわゆる慶長の役です。

慶長3年(1598年)豊臣秀吉死去。これによって朝鮮からの兵も撤退します。

慶長5年(1600年)9月関ヶ原の戦いが起こり徳川家康の東軍の勝利。

慶長8年(1603年)徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きます。

続きは
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