2021年6月2日 | お役立ち情報
長崎県ってどんなところ?長崎の文化・食べ物・お祭り・県名の由来などを紹介!
写真提供:長崎県観光連盟
都道府県を順にご紹介するシリーズ、今回は「長崎県」です。九州地方の最も西に位置し、美しい島々と半島の海岸線が特徴的な長崎県。古来、海外との盛んな交流による独自の文化が息づく一方、原爆投下という悲惨な歴史を乗り越えてきました。造船業・漁業・観光業などに立脚し、国際的な地位を保ちながら進化を続ける長崎県の魅力をお伝えいたします。
長崎県の基本情報
はじめに、長崎県の基本情報をご紹介いたします。
歴史と産業
古くから大陸とのつながりが強く、すでに縄文時代には対馬と朝鮮との間で貿易がおこなわれていました。1550年にポルトガル(南蛮:なんばん)船が平戸(ひらど)に入港すると、来日していたフランシスコ・ザビエルは布教活動を鹿児島から平戸に移します。キリスト教が広まった長崎市は、一気にヨーロッパ文化のあふれる街として栄えました。
1571年に当時の大名である大村純忠(おおむらすみただ)が開いた長崎港は、南蛮貿易の拠点として重要な位置を占めていました。その背後で、豊臣秀吉や徳川幕府の相次ぐ禁教令によってキリスト教の弾圧が強まり、1637~1638年の島原の乱で多くのキリシタンが被害に遭います。
江戸時代の200年以上に渡る鎖国の間、長崎市の出島(でじま)は一部の国と貿易を続け、1859年日米修好通商条約まで日本の窓口として機能しました。開港とともに長崎県にはますます西洋の文化が浸透し、来日した貿易商のトーマス・ブレーク・グラバーによって貿易や造船、鉄鋼、炭坑などの分野も開拓されました。
昭和に入ると軍艦建造のための造船所が増加、太平洋戦争へと突入します。1945年8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され、周辺は甚大な被害を受けました。戦後は奇跡的な復興を遂げ、最盛期には国産石炭のうちおよそ1割を産出するなど、長崎県は日本の産業発展に大きく貢献しました。
現在、造船の技術は各種機械や電子部品などに応用され、漁業や観光業などとともに長崎県の主要産業としての役割を担います。
面積と人口
長崎県の面積は約4,131㎢で、九州のなかでは5番目、全国では37番目の大きさです。13の市と4つの郡および8町からなり(令和3年4月現在)、「長崎」「県北」「県央」「島原」「五島」「壱岐」「対馬」の7つの地域に分かれます。県のほとんどが離島や半島から成り、島の数は971(うち有人は74)で全国の島の14.2%を占めます。また、面積の9割が山地や丘陵、台地で、1割ほどが低地という地形も特徴的です。海岸線の距離は約4,184km で、北海道に次ぐ全国 2 位の長さを誇ります。
戦後、島と本土をつなぐ橋が続々と完成し、長崎空港をはじめとする6つの空港や複数の港が人々の生活を支えます。県人口は1,341,112人で、九州地方では福岡県、熊本県、鹿児島県、沖縄県に次ぐ5番目です。
【参考】
公益財団法人国土地理協会「2020年4月調査 市町村別 人口・世帯数(日本人住民+外国人住民)」
総務省統計局「人口・世帯」
県の位置と県庁所在地
長崎県の位置は、およそ北緯128°~130°、東経31°~34°です。もっとも朝鮮半島に近い対馬は九州と韓国の間の対馬海峡に位置し、韓国の釜山(プサン)までの距離は49.5kmという近さです。県庁所在地は長崎市で、人口413,845人の中核(ちゅうかく)市として栄えます。
県名の由来
県名は、鎌倉時代の北条氏の直属であった長崎氏(ながさきし・ながさきうじ)に由来する説が有力です。桓武(かんむ)天皇の子孫に当たり、「桓武平氏(かんむへいし)」とも呼ばれた長崎氏が、県内の広範囲を治めていたことによるものです。そのほか、野母崎(のもざき)半島を方言で表現した「長か岬(ながかみさき)」が長崎に変化した説も伝わっています。
長崎県の文化
写真提供:長崎県観光連盟
長崎県に伝わる文化のうち、主なものをご紹介いたします。
居留地と洋館
開国にともない、外国人に向けた居留地が設けられました。「伝統的建造物群保存地区」に指定されている「東山手」・「南山手」地区は、「大浦天主堂」や「旧グラバー住宅」などの洋館や石畳が各所に点在します。日本の近代化につながる通信技術や洋式のホテル、ボウリングなどのスポーツや清涼飲料水なども居留地から広まりました。
佐世保(させぼ)地区
入り組んだ地形で外洋への出入口が1つしかない佐世保湾は、かつて軍港として栄え、現在も海上自衛隊とアメリカ海軍の基地があります。佐世保バーガーやレモンステーキなどのグルメ、ジャズフェスティバルや外国人バーといったアメリカの文化が浸透し、ハイカラな港町やレンガ造りの倉庫群が残ります。
長崎新地(しんち)中華街
1562年に長崎港が開かれ、中国との貿易が本格的にはじまりました。在留中国人は、幕府が密売防止のため建設した「唐人屋敷(とうじんやしき)」で生活し、開国後は新たに造成された「新地」へと移住しました。後に、中国の祭りや食文化などが色濃く残る地域として発展した場所が新地中華街です。
シーボルト
1823年、ドイツ出身の医学者・植物学者のシーボルトが来日し、「鳴滝(なるたき)塾」を開いて日本の医師に西洋医学や科学を伝授しました。赤いレンガ造りのシーボルト記念館では、各種資料を展示しています。親交を深めた熊谷五右衛門義比(くまやごえもんよしかず)に贈ったピアノは日本で最古のものとされ、山口県の博物館が所蔵します。
べっ甲(こう)
「べっ甲」とは、ウミガメの一種である「タイマイ」の甲羅を原料とする工芸品で、主に髪飾りやネックレスなどのアクセサリー、置物に用いられます。べっ甲細工は飛鳥・奈良時代に中国から伝わった技術ですが、17世紀に長崎港にタイマイが輸入されるようになって以降、長崎の名産品として知られるようになりました。
長崎県の食文化・食べ物
写真提供:長崎県観光連盟
続いて、長崎県の食文化をご紹介いたします。
長崎ちゃんぽん・皿うどん
ちゃんぽんは、明治時代に来日した中国人が営む店で、中国からの留学生にふるまった料理が起源とされます。中国語でご飯を意味する「喰飯(シャンポン)」や、日常的なあいさつの「吃飯(シャポン)」が変化したもの、ポルトガル語で「混ぜる」を意味する「champon(チャンポン)」など、語源にはさまざまな説があります。
皿うどんも同じ店がはじまりとされます。当時はちゃんぽん用のめんを炒めた太めんも使用し、手が込んでいるため値段はやや高めでした。
卓袱(しっぽく)料理
卓袱とは朱塗りの円卓を指し、身分を気にせず平等に大皿を囲んで食べられることから宴席で広まりました。中国の精進料理である「普茶(ふちゃ)料理」の形式に、和風・中華風・オランダ風を混ぜた庶民の献立を盛りつけたものが起源で、「和華蘭(わからん)料理」とも呼ばれます。「お鰭(ひれ)をどうぞ」ではじまり、名物「パスティー」なども味わうことができます。
カステラ
室町時代に長崎港へ来たポルトガル人が伝えたものです。かつてスペインに栄えた「カスティーリャ王国」のパンとして紹介する際、ポルトガル人が「カステラ」と発音したことが起源とされます。現在県内では、百数十ほどの店舗がカステラを製造し、定番のお土産として人気を博しています。
トルコライス
1つの皿にカレーピラフとナポリタンを並べ、ポークカツを乗せてデミグラスソースなどをかけた「トルコライス」。サフランを使用したピラフ料理「トルコ風ライス」を基に、長崎県のシェフがカレー粉で色づけしたピラフに肉やスパゲッティを組み合わせた説、さらには3つのメニューを「トリコロール・ライス」と呼んだ説などが起源とされます。
海産物と農産物
海に囲まれた長崎県は、漁港数や水揚げされる魚の種類が全国1位。アジやタイ、ブリなどの漁獲量はトップクラスで、サザエやカキなども豊富に味わえます。また、江戸時代から栽培されるビワの生産量も国内1位を誇ります。生産量が全国3位のジャガイモは、かつてジャカルタから長崎に持ち込まれた「ジャガタライモ」が変化したものという逸話も残ります。
長崎県の伝統行事・祭り
写真提供:長崎県観光連盟
長崎県に伝わる主な伝統行事や祭りは、次のとおりです。
長崎くんち
国指定重要無形民俗文化財に指定されている「長崎くんち」は、10月7~9日に開催される諏訪神社の祭りです。異国の要素を取り入れた豪華な曳き物(ひきもの)や「龍踊(じゃおどり)」などとともに、独特のリズムとかけ声で盛り上がります。「くんち」とは9日のことで、江戸時代に諏訪神社で2人の遊女が披露した能「小舞」が起源とされます。
精霊(しょうろう)流し
8月15日に開催される「精霊流し」は、新盆を迎える遺族が手作りの船を曳きながら終点の「流し場」まで練り歩き、故人を極楽浄土へ送り出す伝統行事です。祭りの日は、独特な鐘の音色やかけ声とともに、悪霊を追い払うとされる爆竹の音が街中に響き渡ります。現在は、環境汚染の心配から船を海に流すことはなくなりました。
長崎ペーロン選手権大会
7月の最終日曜日に開催される大会で、ボートレースの元祖ともいわれます。1655年、長崎港で難破した中国船が多数の犠牲者を出した事故を悼み、在留中国人が海の神の怒りを鎮めるために端舟(はしけ)と呼ばれる船で競漕(きょうそう)したことがはじまりです。「ペーロン」とは、天の神に仕える中国の白龍(パイロン)が語源とされます。
ランタンフェスティバル
もともとは「春節(しゅんせつ)」と呼ばれる旧正月を祝う行事として新地中華街で開催され、1994年からは長崎市の「ランタンフェスティバル」として定着しました。2月の期間中は、中華街を中心とする市内に1万5千個ほどのランタンが色とりどりに飾られ、踊りやパレード、ショーなどの華やかなイベントとともに盛り上がります。
ヘトマト
国指定重要無形民俗文化財の「ヘトマト」は、1月中旬の日曜日に五島市で開かれます。新婚の女性が酒樽(さかだる)の上でおこなう羽つき、体にすすを塗った若者がわらの玉を取り合う「玉せせり」、若い女性を乗せた大きな草履などが見どころです。ヘトマトの語源は「的やぶり」の行事「アトマト」や、「釜(へ)と的(マト)」などですが、定かではありません。
長崎県の建築物・遺産
写真提供:長崎県観光連盟
長崎県の主な建築物や遺産は次のとおりです。
平和祈念像
爆心地の北側、小高い丘に位置する平和公園の一角にあります。長崎市の事業として建造が進められ、国内だけでなく世界各地から寄付金が集まり、4年の歳月をかけて1955年に完成しました。右手は「原爆の脅威」、左手は「平和」、そして目を閉じた表情には「原爆犠牲者の冥福(めいふく)を祈る」という意味が込められています。
住所:長崎県長崎市松山町 平和公園内
公式サイト:https://www.city.nagasaki.lg.jp/heiwa/3030000/3030100/p005151.html
長崎と天草地方の潜伏(せんぷく)キリシタン関連遺産
国宝の大浦天主堂、平戸の聖地と集落など12の資産で構成される「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、2018年7月に世界文化遺産に登録されました。キリスト教が禁止されていた約250年の間、密かに信仰を続けた「潜伏キリシタン」。開国後に建てられた大浦天主堂で、15人の日本人が信仰を申し出たできごとは「信徒発見」と呼ばれています。
住所:大浦天主堂は長崎県長崎市南山手町5−3
公式サイト:http://kirishitan.jp/
出島
鎖国体制が敷かれていた江戸時代、布教活動制限のため、ポルトガル人を居住させる扇型の埋め立て地「出島」が建設されます。出島は、鎖国の間も海外との交流を続ける唯一の場として繁栄しました。開国後の工事によって一度は姿を消したものの、1996年から本格的な復元事業が開始、現在も幕末や明治の建物などが続々と建設されています。
住所:長崎県長崎市出島町6-1
公式サイト:https://nagasakidejima.jp/
軍艦島(端島(はしま)炭坑)
高い護岸と煙突の勇ましい姿が軍艦「土佐」に似ているとされ、「軍艦島」の名で知られる端島炭坑。海底から石炭を採掘する海底炭坑として、日本の近代化を支えました。国内初のコンクリート製高層アパートや娯楽施設などが注目されましたが、1974年に閉山を迎えます。2015年世界文化遺産に登録され、現在は各種の上陸ツアーでにぎわいます。
住所:長崎県長崎市高島町端島
公式サイト:https://www.at-nagasaki.jp/world-heritage/nagasaki/hashima/
島原城
奈良県から長崎県に領地を移した松倉豊後守重政(まつくらぶんごのかみしげまさ)が1618年から7年かけて築城し、253年間に4氏19代が居城しました。1874年の廃城後は1964年に天守閣が復元され、現在はキリシタン関連や島原の乱などの資料を展示しています。島原城跡公園は、「日本の歴史公園100選」に選定されています。
住所:長崎県島原市城内1丁目1183-1
公式サイト:https://shimabarajou.com/
長崎県の県民の日
写真提供:長崎県観光連盟
長崎県は、原爆が投下された8月9日を「県民祈りの日」と定めています。この日は午前11時2分に1分間の黙祷(もくとう)を捧(ささ)げ、犠牲者の方の冥福を祈るとともに世界平和を誓います。1995年、条例により長崎市も「ながさき平和の日」と定めました。
学校教育では「平和教育」を導入し、8月9日の登校日には式典や集会などで犠牲者の方の冥福を祈り、戦争の実体験や平和の尊さなどを子どもたちに伝えています。
まとめ
写真提供:長崎県観光連盟
(写真掲載にあたっては大司教区の許可をいただいております。)
今回は、長崎県の基本情報や各種の文化と伝統行事、遺産や建築物などについてご紹介いたしました。かつて、海外の古地図に「NAGASAKI」と表記された長崎県。現在もアジアの玄関口として、その国際的な位置づけに変わりはありません。
広島に次ぐ原爆被災地としての歴史を後世に伝えつつ、恵まれた自然、産業、文化とともにさらなる飛躍を目指す長崎県に、ぜひ一度足をお運びください。