2019年5月29日 | お役立ち情報
【日本紙幣の歴史】お金はいつから、そして紙幣はいつからあるの?
2024年の上半期を目処に10000円札、5000千円札、1000円札のデザインが一新されることになりました。500円硬貨についても、ゴールドとシルバーの2色を使ったデザインに変更し、こちらは、2021年度の上半期を目処に発行される予定です。(2000円札は現状のまま)
【肖像画の変更】
・10000円札:福沢諭吉→渋沢栄一(40年ぶりの変更)
・5000円札:樋口一葉→津田梅子(20年ぶりの変更)
・1000円札:野口英世→北里柴三郎(20年ぶりの変更)
そこで今回は、日本の紙幣の歴史や、そもそもお金というものがいつから使われたのかをご紹介していきたいと思います。
古代は「米」や「塩」や「布」がお金の代わり
戦国時代や江戸時代の藩の大きさを表すとき、加賀100万石とか石高(こくだか)で表しますね。これはお米が最も大切な食料のベースであり、その大名の豊かさ、収入をあらわす単位として使われていました。
実際、古代では日本でも、欲しいものを手に入れる際「物々交換」が行われ、米や塩や布などが、お金の役割を果たしていました。
日本最初のお金は「富本銭」それとも「和同開珎」?
日本最古の貨幣は「和同開珎」(わどうかいちん)とされてきましたが、1999年、奈良の飛鳥遺跡でそれ以前の貨幣の可能性の高い7世紀後半のものとされる「富本銭」が出土しました。(中国の開元通宝をもとに683年作られたとされる)
しかし「お金」として流通していたかは不明な点が多く、708年作られた「和同開珎」が日本で最初に「流通」した貨幣という説も有力です。
以後奈良時代、平安時代の約250年の間に、金貨1種類、銀貨1種類、そして皇朝12銭とよばれる銅貨12種類が作られました。
鎌倉、室町時代には、中国から輸入した宋銭、明銭などが流通
平安時代後期から、室町時代では、自分たちで貨幣は鋳造せず、日本から輸出した砂金等で銅銭である「宋銭」に引き換えて使っていました。
室町時代には明国から「明銭」を輸入し全国で流通していたようです。特に「永楽通宝」は多く流通し、織田信長がそのデザインを織田家の旗印としていたことでも有名です。一説には信長が貨幣経済に早くから着目していたからだとも言われています。
有力戦国大名は自分でお金を作った?
それまで中国からの輸入銭に頼っていた日本ですが、16世紀になると各地で金山や銀山が発見され、それを手に入れた大名が金貨や銀貨を作り始めます。武田信玄が作った「甲州金」は有名です。
そして、何と言っても豊臣秀吉が鋳造させた「天正長大判」は世界最大の金貨と言われています。これは主に流通するというよりは恩賜や贈答用として用いられました。(庶民は相変わらず明銭を使っていたようです。)
貨幣制度を統一した徳川家康
関ヶ原の戦いで勝利を収め天下を統一した徳川家康が貨幣制度の統一に着手。慶長6年(1601年)、慶長金貨・銀貨を発行しました。さらに寛永6年(1636年)徳川家光が寛永通宝という銭貨(※)を作りました。そして寛文10年(1670年)輸入銭が禁止され、金貨、銀貨、銭貨という3つの貨幣を江戸幕府が独自で支配する仕組みができました。これを三貨(さんか)制度といいます。それぞれの交換レートも統一されました。
しかし、幕府は財政難を切り抜けようと金銀の質を落として貨幣の数を増やしました。(元禄の改鋳)その結果諸物価が上がり庶民を苦しめる結果となりましたが、幕末までこの改鋳は繰り返し行われました。
※ 銭貨(せんか)・金貨銀貨のような貴金属の硬貨でなく非貴金属の硬貨を指すことが多く、おもに銅貨であるが、銅不足で他の合金のものもある。
紙幣の誕生
1600年ごろ、伊勢山田地方の商人の「信用」に基づいた山田羽書(やまだはがき)が発行されました。これが日本最初のお札とされています。
しかし本格的なお札は、寛文元年(1661年)越前福井藩が発行した「藩札」。
これを皮きりに各藩主が有力商人の協力を得て、領土内だけで使える独自の地域通貨とも言える「藩札」を次々に発行しました。幕府が発行する金貨、銀貨等に対応した「金札」「銀札」です。
このように江戸中期からは幕府の三貨制度と各藩の「紙幣」が並存していました。
明治維新—–全国で通用する紙幣が初登場
新政府は、当初幕藩時代の金銀銭貨(三貨)や藩札をそのまま通用させました。一方で政府自らも太政官札等を発行しました。これが日本で初めて全国で通用する紙幣です。また、民間の為替会社にも紙幣を発行させました。しかし、簡単で単純な印刷のため偽造紙幣が横行し、また通貨間の交換レートが複雑化するなど大混乱となりました。
円の誕生—–日本初の肖像画紙幣は神功皇后(じんぐうこうごう)
明治4年(1871年)新政府は貨幣制度を統一するために「新貨条例」を制定します。
単位を「両」から「円」に改め10進法を採用、現在に至る「円の誕生」です。金本位制の元で金1、5グラム=1円での円の誕生です。そして金貨、銀貨、銅貨が発行されました。
ドイツに印刷原版の製造を依頼した新紙幣「明治通宝」は明治5年(1872年)に発行されました。
この「明治通宝」にも偽造が多発。
明治14年(1881年)にデザインも一新しました。
神功皇后の肖像が描かれた日本初の肖像画入りの政府紙幣です。神功皇后札とよばれました。この肖像の作家はいわゆる御雇外国人であるイタリア人のエドアルド・キヨッソーネです。なんとなく欧米人風の顔立ちになっていますね。
一方で近代的な銀行制度を作るためアメリカのナショナルバンクをモデルに明治5年(1872年)「国立銀行条例」を制定。全国に153の国立銀行が作られました。そしてこの国立銀行にも紙幣の発行権が与えられました。
日本銀行兌換(だかん)銀券の発行
明治10年(1877年)西南戦争の戦費調達のため政府紙幣、国立銀行紙幣が乱発され激しいインフレが発生。紙幣の乱発を避け通貨の安定を図る必要性等から中央銀行として日本銀行が明治15年(1882年)に設立されました。
そして明治18年(1885年)日本で初めての「日本銀行兌換(だかん)銀券」が発行されました。銀貨と引き換えのできる紙幣です。
これが「拾円券」(10円券)です。
商売の神様と言われる大黒天の肖像が描かれていることから「大黒札」と言われていました。
この「大黒札」には面白いエピソードが残されています。
「大黒札は強度を高めるために、こんにゃく粉を混ぜるという工夫がされていた。しかしその為、虫やネズミの被害を受けることがあることが判明した。」ということで、また新しい紙幣に生まれ変わったようです。
紙幣の顔に、歴史上の人物が続々登場、一番大きなお札もこの時代に
明治21年(1888年)から明治24年(1891年)にかけて、4人の歴史上の人物が毎年次々に登場します。
明治21年(1888年)からの改造兌換銀券5円券に菅原道真。
菅原道真は、平安時代中期の学者で宇多天皇の信任が厚く、学者としては異例の右大臣にまで出世。藤原氏を抑え遣唐使を廃止するなど実績を積んだが、藤原時平の中傷によって太宰府に左遷され没した人物ですね。のちに天満天神として祀られています。
明治22年(1899年)からの改造兌換銀券1円券に武内宿禰。
武内宿禰(たけのうちのすくね)は、記紀によれば大和朝廷の初期に大活躍した伝承上の人物で、景行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇になんと200数十年仕えたという人物です。神功皇后を助け新羅出兵などに功績があり、日本最初の「大臣」とも言われています。
明治23年(1890年)からの改造兌換銀券10円券に和気清麻呂。
和気清麻呂(わけのきよまろ)は奈良時代末期から平安時代初期の公卿で、道鏡が宇佐八幡宮の神託を得たとして天皇になろうとした野望を砕きましたが、その怒りをかって大隅に流されます。しかし道鏡失脚の後、光仁天皇、そして桓武天皇の信任が厚く、平安京への遷都などに尽くした忠臣です。
明治24年(1891年)からの改造兌換銀券100円券に藤原鎌足。
藤原鎌足は飛鳥時代の豪族で、中大兄皇子(のちの天智天皇)と曽我氏を倒し「大化の改新」を成し遂げた中心人物です。改新政府の重鎮となって律令政治の基礎を築きました。その後隆盛を誇る藤原氏の祖です。
そしてこの4人は、明治、大正、昭和とそれぞれ色々なお札の肖像として何度も登場しています。
お札の文化史(植村峻著)によると「本邦上古から功勲偉績があり、万古にわたって一般大衆の愛敬心が浅くはない」と選定理由に残されていますが、いずれも天皇の側近として尽くし、活躍した人たちで、維新の後の明治、大正、そして昭和初期という時代を象徴する人選なのかもしれません。
また、明治24年(1891年)には現在に至るまで日本で最も大きなお札が発行されています。藤原鎌足が描かれた改造100円券でサイズはなんと縦130㎜、横210㎜です。なんとB6サイズよりも大きいのです。
ちなみに、同じく一番小さな紙幣は昭和23年(1948年)に発行された「A5銭券」で、縦48㎜、横94㎜です。第2次大戦後すぐに発行された小額紙幣ということもあるのでしょうか。梅の花が描かれ、透かし等もないお札でした。
これまでに一番多く登場したのは聖徳太子
聖徳太子は、これまで最も多い7種類のお札に肖像画として登場しています。最初は昭和5年(1930年)の兌換券100円券。
以降、日本銀行券100円券に昭和19年(1944年)、20年(1945年)、21年(1946年)に登場。
昭和25年(1950年)には同1000円券、昭和32年(1957年)には同5000円券、昭和33年(1958年)には同10000円券に登場するなどまさにお札肖像界のトップスターです。昭和生まれの方なら「聖徳太子が欲しい」という会話を覚えているでしょう。
ちなみに聖徳太子の登場する昭和19年(1944年)発行分以降に「兌換」(だかん)の文字がなくなっています。これは昭和17年(1942年)日本銀行法の制定によるものです。日本は金本位制から管理通貨制度に移行、つまり紙幣の価値を金などで準備して額面価値を保証しなくとも通貨量を管理・調整できる制度で、いまでも政府・日銀で行われている制度です。
そして第二次大戦後の肖像は・・・全登場人物列挙
・日本武尊(やまとたけるのみこと)の肖像紙幣
まずは昭和20年代、日本が対戦に敗れ混乱の中から立ち上がっていこうとする時代、最初に登場したのは日本武尊の肖像の紙幣です。
しかしこの紙幣、実は昭和16年(1941年)に製造を開始しながら事情で終戦後の昭和20年(1945年)8月17日まで日本銀行に死蔵されたのち流通した1000円の「兌換券」。ただ、すでに発行した時点では金貨への兌換が出来ず、さらに戦後の激しいインフレーションの中で新円切替に伴って昭和21年(1946年)3月2日に失効した短命な紙幣でした。
そして
・ 二宮尊徳、昭和21年(1946年)から日本銀行1円券
・ 板垣退助、昭和23年(1948年)から50銭政府紙幣、昭和28年(1953年)から日本銀行100円券
・ 岩倉具視、昭和26年(1951年)そして昭和44年(1969年)から日本銀行500円券
・ 高橋是清、昭和26年(1951年)から日本銀行50円券
が、昭和20年代に登場しました。
日本が徐々に復興し高度成長時代に入った昭和30年代に登場したのが
・ 伊藤博文、昭和38年(1963年)から日本銀行1000円券
で、1000円札は聖徳太子から明治の元勲に交代しました。
さらに昭和59年(1984年)には揃って明治時代の文化人が登場します。
・ 福沢諭吉、日本銀行券10000円券
・ 新渡戸稲造、日本銀行券5000円券
・ 夏目漱石、日本銀行券1000円券
ちなみにここまで10000円札、5000円札はいずれも聖徳太子が務めていました。長い間ご苦労様でした・・・ということでしょうか。
西暦2000年代に入って——女性も登場
紫式部、平成12年(2000年)から日本銀行券2000円券
2000年に開催された沖縄サミットを記念して発行された紙幣で表には沖縄・首里城の守礼の門がデザインされ、裏には紫式部と源氏物語絵巻から光源氏と冷泉帝が描かれています。沖縄ではいまでもしっかり流通しています。
そして、平成16年(2004年)からは
・ 樋口一葉、日本銀行券5000円券
・ 野口英世、日本銀行券1000円券
が登場しました。10000円札は引き続き福沢諭吉で、この3人が令和元年の現在も使用されています。
ここまで登場した人物は18名です。
そして令和6年(2024年)新紙幣が登場!
東京オリンピック・パラリンピックの次、フランスのパリでオリンピック・パラリンピックが開催される年なのでまだ少し先の事かもしれませんが、この年、新たな紙幣が登場します。
新10000円券に渋沢栄一、裏面は東京駅の駅舎。
第一国立銀行や現東京証券取引所、現東京商工会議所を設立するなど明治を代表する経済人です。
新5000円券に津田梅子、裏面は藤の花。
岩倉使節団に同行した日本初の女子留学生の一人。
1900年に現津田塾大学を創立するなど語学を始め女子高等教育に尽くした事で有名ですね。女性が活躍する新しい時代の象徴として登場したのでしょうか。
新1000円券に北里柴三郎、裏面は富獄三十六景
世界で初めて破傷風菌の培養に成功し、その血清療法を確立。
さらにペスト菌を発見。北里研究所を設立するなど医学・科学の進歩に大きな貢献をしました。
ますます科学の発達する時代になると思われる令和という時代にふさわしい人選です。
肖像画紙幣誕生から、140年足らず。令和の紙幣はどんな時代を生きるのか
日本で初めての肖像画紙幣が誕生したのは明治14年(1881年)神功皇后札でした。以後140年近く、肖像画紙幣は激動の時代とともにありました。
肖像画を使うのは、顔の表情が複雑で偽札が作りにくいからという説があります。そして誰が登場するかという事はそれぞれの時代を反映した人選になっています。
令和という新しい時代、令和2年(2020年)には東京オリンピック・パラリンピックが、令和7年(2025年)には大阪で日本万国博覧会が開かれ、華やかなスタートを切ることでしょう。
一方で、令和6年(2024年)には日本の人口の半分以上が50歳を超えると言われるなど、国力・経済力の低下も予測され始めています。経済活動にも様々な知恵を絞らなければなりません。
そしてまさにこの年、新紙幣が発行されます。渋沢栄一のパイオニア精神、津田梅子の国際性、北里柴三郎の先見性、科学を見つめる眼差しに力を得て素敵な時代にしていきたいですね。